『イザイホウ −神の島・久高島の祭祀−』 

1967年 日本 監督:野村岳也

 沖縄県南城市の久高島で12年に一度午年に全島を上げて「イザイホー」と言う神事が行われていた。1966年に行われた神事と島の暮らしを記録したドキュメンタリー映画

 久高島は昔から神の島として知られ、さまざまな神事が島の暮らしに組み込まれている。 その最大の神事が12年に一回行われるイザイホー。
 ”イザイホーは、30歳から41歳の、島で生まれ、島に生きる女が神になる神事で、四日間の本祭を中心に、一ヵ月余の時をかけて行われるのである。島の女たちは、ノロ(巫女)を中心に神女組織を構成して島の男たちや島の暮らしを守ってきた。”(映画を製作した海燕社のサイトから引用)
 イザイホーは島民のライフスタイルの変化や人口の減少などから1978年を最後に消滅したという。映画の中でも島民がこれ(1966年の祭り)が最後になるかもしれないと語っていたが、1966年当時でも島民の多くが島外に出稼ぎに出ていて祭りの期間だけ島に戻ってくる様子が記録されている。

 祭りそのものもだが、島の生活の様子も今となっては非常に貴重な記録だろう。島にはほとんど電気が通っておらず、水道も無いので子供たちが井戸で水汲みする様子が映される。男たちはサバニという小舟で漁に出て、女たちは畑仕事をする半農半漁の伝統的な生活で、貴重な現金収入となるイラブー(エラブウミヘビ)の加工の様子も出てくる。学校の先生がインタビューで島の子供たちの将来の夢は島の外で生活することだと語っていたが、これは当時の日本中の僻地で共通した感覚だったのだろう。この映画は秘祭を記録したものとして研究者以外には公開されなかったということだが、秘祭の記録という以上に島民にとっては、不便な暮らしを強いられていた当時の映像があまり見たく無いものだったのかもしれない。今年一般公開されたのは島民の世代交代も進み、懐かしい記録として客観的に見られるようになったということもあるのでは無いだろうか。

 以下のリンク先で監督の島での生活が語られているが、監督もスタッフも金もコネもなく飛び込みに近い状態で食料を自前で持ち込んで島を訪問し、しばらく撮影せずに島民と交流を続けていたそうだ。災害などが発生すると被災地の住民の生活に土足で踏み込むような取材をし、現地のコンビニや商店でスタッフの食料を買い漁る現代のマスコミ関係者は是非見習って欲しいものだと思う。

野村岳也監督インタビュー
http://www.webdice.jp/dice/detail/4541/

2015年1月 渋谷アップリンクXで

『カメラマンの復讐』(原題:MEST KINEMATOGRAFICHESKOGO OPERATORA/THE CAMERAMAN'S REVENGE) 

1912年 ソ連ロシア帝国) 監督: ヴワディスワフ・スタレーヴィチ


宮澤やすみさん主催の「小唄カフェ」というイベントで、活動写真弁士の坂本頼光(さかもと らいこう)さんの説明付きで鑑賞。

精巧に作られた昆虫の模型を使ったサイレントのコマ撮り実写アニメーション映画です(しかも制作されたのがロシア革命の2年前の帝政ロシア末期!)。

あらすじ

カブトムシの夫婦が登場。夫はダンサーのトンボと、妻は画家のキリギリスとそれぞれ不倫をしており、夫は仕事の出張と偽り愛人であるトンボのダンサーのいる劇場へ。そこでカブトムシはトンボを狙っているバッタと乱闘になるが、腕力ではカブトムシに敵わない映画カメラマンのバッタはカブトムシとトンボの不倫現場の撮影に成功、復讐の機会を狙う。一方、カブトムシの妻は夫の出張中に愛人で画家のキリギリスを家に引き込んで情事に及ぼうとするが、そこへトンボとの情事を邪魔された夫が戻ってきてしまい修羅場に。
キリギリスは逃げ出し、夫婦の仲が戻ったところでカブトムシ夫妻が映画を見に出かけると、バッタによって夫の不倫現場を収めたフィルムが上映され、激情した妻と夫、バッタの乱闘で劇場は崩壊。カブトムシ夫妻は牢屋へという話。

昆虫の模型はかなり本物そっくりに作られていて、セルアニメと違って表情が分からないので、体全体の動きで感情表現しています。
虫が主人公というと子供向けのようですが、カブトムシの夫とトンボのダンサーがラブホテルに入って、キリギリスが鍵穴からカメラで盗撮するというシーンもあり、とてもお子様には見せられないようなアダルトな内容。大人向けのエロチック・コメディということだったのか。わざわざ昆虫の模型を使ったのは検閲対策だったのか。
素材のフィルムは染色版だったようで画面に色がついておりました。
アメリカでDVD化されたようで英語の字幕が付いていましたが、坂本さんの絶妙な説明でとても楽しく見られました。

帝政ロシア末期〜ソ連建国直後のサイレント映画には、やはりミニチュアワークが素晴らしいと評判の(未見です)『宇宙飛行』や火星まで出かけて社会主義革命をやってしまうというトンデモSF『アエリータ』など映画史的にも重要なSF映画もあったりしますので、これからもいろいろ見てみたいと思います。
(あらすじの一部が間違っていたので訂正しました)

『リヴァイアサン』 

2012年 アメリカ・フランス・イギリス合作 監督: ルーシァン・キャスティーヌ=テイラー/ベレナ・パラベル

ついに更新が年1回以下となっております(苦笑。
ですが、久々に本当に凄い映画(映画というカテゴリーに収まるかどうかも分からない!)のを見たので、ようやくログインID、パスワードを記憶の底から底引き網で引き上げて更新しております。映像製作、特にドキュメンタリー映画に興味のある方は必見の映画(映画じゃないかも?)です。

あらすじ

ストーリーらしいストーリーはありません。冒頭、どこか水飛沫の上がる現場で太いワイヤーにからまった鎖をほどこうとする男の映像から始まりますが、それがどこなのかはまだわかりません。なかなか鎖がほどけないので、このシーンはしばらく続きます。その間、観客はちょっといらいらしながら、これがどういう場所なのかいろいろ想像してみるのですが、良く分からないまま次のシーンへ。さらに断片的なシーンが続き何となく船の上らしいことが分かってきます。説明はこれくらいですね。後は映像と音声に圧倒されっぱなし。

渋谷のイメージフォーラムに見に行ったのですが、閉館した吉祥寺のバウスシアターの最後の爆音映画祭でも上映された作品です。爆音映画祭の上映では仕事で行けなかったのでイメフォでの上映が決まって期待して行きました。イメフォでは爆音ではありませんでしたが、音声は十分迫力があり期待通り凄い作品です。この作品はGoProという小型デジタルムービーで撮影されていますが、音声はマイクで別録りしているのではなく、防水ケースに入れたGoProで直接録音した素材を使っているようです。そのため作業中の乗員の会話はこもってしまってほとんど聞き取れませんし、大きい音は歪んだりしてます。それと小型カメラの特性を活かした映像が妙にマッチしていて、死んで浮遊する霊魂になったらこんな風に見えたり聴こえたりするんじゃないかという気分になってくるのです。
途中、獲れた魚やホタテを加工し続ける場面がありましたが、現場の環境音が響く中で同じ作業が繰りかえされるのは、食の大量生産現場を撮影した『いのちの食べ方』をちょっと思い出しました。

今、思い出しながら書いていて、船は結構揺れているはずなのに、映像はほとんど上下左右の揺れが感じられなかったのが実は凄いかなと。水中撮影や海鳥の群れの中を撮影しているテクニックも相当に凄いですが。メイキング映像もありそうなのでDVD化されたら観てみたいですね。

こちらにヴィヴィアン佐藤さんの解説があります。
http://eiga.com/movie/80189/critic/

ホラー映画ベストテン(2012年)

Washburnさんの「男の魂に火を付けろ」のハロウィン企画ホラー映画ベストテンに初参加します。なんと当ブログ4年ぶりの新規投稿であります(汗。
http://d.hatena.ne.jp/washburn1975/20121031

非常にざっくりと観客を怖がらせるための映画ということで、細かいホラー映画のくくりや定義は決められていませんでしたが(サスペンスやスリラーとの違いとか)個人的には何らかの超常現象なり怪奇現象を(メインではないにしろ)扱っていることがホラー的要素になるのかなと思っています。
というわけでいろいろ悩みながらチョイスしたのが以下10作品です。

1.サスペリアPART2(1975年イタリア ダリオ・アルジェント監督)
<アルジェント作品では最も好きな作品。超常現象を扱っている点では『フェノメナ』や『インフェルノ』の方がホラー要素は多いと思うが、カメラワークとビジュアルの華麗さでこちら>

2.シャイニング(1980年アメリカ スタンリー・キューブリック監督)
<原作者がなんと言おうがキューブリック版を推します。狂って行くジャック・ニコルソンよりもダニーの超能力(シャイニング)が発動していくところが怖かった>

3.CURE(1997年日本 黒沢清監督)
<正直ホラーとしては余り怖くないが、いきなり黎明期の催眠術師メズマーを出してくる脚本や精神分析医役のうじきつよしが発見したという大正時代(?)の催眠術師のフィルム(フェイク)のアヤシサ>

4.バミューダの謎/魔の三角水域に棲む巨大モンスター!(1978年アメリカ トム・コタニ監督)※TV映画で劇場公開なし
<前半は、ほのぼのしたラブロマンスでファンタジーものかと思いきや、後半一転して不死の魔女伝説とか巨大動物パニックになりぶっ飛んだ>

5.大魔神(1966年日本 安田公義監督)
<小学生のときにTVで大魔神が登場するときの画面が異様にドス黒いのと重苦しい伊福部劇伴とゴンゴンいう効果音の相乗効果で夜寝られなくなった>

6.エイリアン(1979年アメリカ リドリー・スコット監督)
<クリーチャーものとして『クローバー・フィールド』とどちらにするか迷ったが、ギーガーに敬意を表してこちらを>

7.八つ墓村(1977年日本 野村芳太郎監督)
<これはサスペンス映画というよりも、落ち武者の呪いがテーマのホラー映画ということで良いと思う。渥美清金田一があまりにも諦観的なのは呪いの存在を知ってしまったからではないのか>

8.アコークロー(2007年日本 岸本司監督)
<このブログにも書いたが、沖縄の巫女(ノロ)役エリカの存在感が素晴らしい>

9.ウィッカーマン(1973年イギリス ロビン・ハーディ監督)
ドルイドのお祭りで女装してノリノリなクリストファー・リー御大に敬意を表して>

10.箪笥(2003年韓国 キム・ジウン監督)
<美少女ホラーもので日本の『富江』、『エコエコアザラク』、韓国の『ボイス』と迷ったが、観ている客の方がおかしくなりそうな後半からの混乱っぷりが凄まじくこちらを。韓国ホラーはひねり過ぎのものもあるがそこがまた面白い>

『地球最後の男』 

1964年 アメリカ/イタリア 監督:シドニーサルコウ、ウバルド・ラゴーナ

地球最後の男/人類SOS!(2in1) [DVD]

地球最後の男/人類SOS!(2in1) [DVD]

とりあえず、2008年最初の更新。まあ、それがゾンビ(吸血鬼?)映画ってのも何ですが、このブログらしいかと。原作はリチャード・マシスンのSF作品"I am Legend"。去年の12月に公開されたウイル・スミス主演の「アイ・アム・レジェンド」は原作のタイトルのままで三度目の映画化。今回紹介するのは1964年に最初に映画化されたやつです。主演はクラシック・ホラー作品の常連ヴィンセント・プライス。主役がヴィンセント・プライスだってこともありますが、かなーりダウナーな雰囲気の作品で全体的に終末感が漂いまくってます。「アイ・アム・レジェンド」は未見ですが、予告編を見ると主人公の日常生活をていねいに描写しているようでわりと原作に近いかも。
吸血鬼モノに分類される本作ですが、吸血鬼(というより吸血病に罹った病人たちなんだけど)の描写がほとんどゾンビなので本作をゾンビ映画の嚆矢とする見方もあります。それについてはまた後ほど。

あらすじ

医学研究所の研究員ロバートは孤独な毎日を送っていた。彼の日課は家の周りに吊るしたニンニクを新鮮なものに替え、無線で生存者がいないか確認し、家の周りの死体を車で焼却場まで運んで焼却し、無人のショッピングセンターで食料を調達し、太陽を避けて隠れている吸血鬼を探して先を鋭く尖らせた杭を打ち込んで殺すこと。夜になると活動を始めた吸血鬼たちが彼の家へと侵入しようと集まってくる。今や生きている人間は彼一人で、孤独な戦いを続けている。ある日、彼は日課の途中で墓地に立ち寄った。そこには彼の妻が埋葬されていた。かつて過ごした妻や娘との平和な日々は娘の発病で終わってしまった。世界的に流行している謎の疫病に感染したのだ。この疫病に感染すると目が見えなくなり間もなく死に至る。なぜか政府は患者の遺体を強制的に焼却処分していた。やがて妻も発病し彼は密かに妻の死体を空き地に埋めたのだが、ある晩、ドアの外から「ロバート、ロバート」と彼を呼ぶ声がした。彼はようやく死体を焼却している真の理由を知った。ドアの外には埋葬した妻が立っていたのだ...。

それまでの吸血鬼映画のパターン(=お約束)は、
1)伝説上の吸血鬼(一種のモンスター)が現れる
2)吸血鬼に血を吸われると吸われた方も吸血鬼になる
3)吸血鬼になると昼は活動できない
4)吸血鬼は十字架とニンニクに弱く、姿が鏡に映らない
5)心臓を杭で刺すと死ぬ
6)太陽にあたると死ぬ
といったものでした。この作品では、まず伝説上の吸血鬼というのが出て来ません。あらすじで紹介したように、伝染病にかかるといったん死んで、その後なぜか吸血鬼みたいな状態で死体が復活するのです。設定としては「バイオハザード」の元祖って感じでしょうか。それで復活した後で血を吸うようになるのか、というと実は映画を見てもはっきりしません。具体的に血を吸っているシーンがないのです。一方で復活した死体たちは吸血鬼としての属性は備えていて3)昼は活動できない(理由は説明されませんが発病後に失明することと関係あり?)、4)ニンニクと鏡に弱い(さすがに十字架がダメってのは世界規模で非キリスト教圏にも伝染病は流行してる訳で科学的に説明できないのでスルーされたんでしょう。鏡に映らないってのも科学的に無理があるので、鏡に弱いとしたのでは?これも理由は不明です)、5)心臓を杭で刺すと死ぬ、などは取り入れられています。
ゾンビ映画のパターンは次回にでもまとめてみますが、最初のゾンビ映画と言われるジョージ・A・ロメロ監督の「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」では、ゾンビ(ちなみにこの映画と次作の「ドーン・オブ・ザ・デッド(邦題「ゾンビ」)」では、作品中にまだゾンビという呼称が出て来ません)の属性に昼は活動しない、というのがあって、「地球最後の男」の設定に影響を受けていることがうかがわれます。何より復活した死体が徘徊するときの動きがぎくしゃくしていて、現在の感覚からするとどう見ても吸血鬼というよりはゾンビにしか見えません。この動きは死体の復活を科学的に検証した結果であろうと思います。いったん死んだ時に脳が酸欠状態になるので運動機能に障害が出る、ということでしょう。生きている人間が血を吸われて吸血鬼化する従来の吸血鬼映画とは完全に一線を画しています。ロバートが食料を調達に行く無人になっているショッピングセンターや道に死体がゴロゴロしている描写とかも後のゾンビ映画に大いに影響を与えているようです。
全編モノクロですが、用途不明の謎の白いタワーやロバートの勤務先の研究所、最後に出てくる「新人類」のファッションなどがちょっと近未来していてSF映画としてもそこそこ頑張っている感じ。

最低映画館「地球最後の男のレビュー」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/worst/vamp/lastman.html
最低映画館はよく拝見しているサイトです。自分はトラッシュ・マウンテン・ビデオのDVD「人類SOS」とのツインパック買ったんですが、これが出る前に輸入版を購入してレビュー記事を書かれたようで頭が下がります。

『パンズ・ラビリンス』 

2007年 スペイン 監督:ギレルモ・デル・トロ

2007年のアカデミー賞3部門を受賞するなど前評判の高い作品でしたので劇場で観てきました。主役のオフェリア役の女の子イバナ・バケロちゃんの演技が凄くうまい。わりとスパニッシュ系の顔立ちで美少女とは言えないにしてもかわいいですし。タイトルを邦訳すると「牧神の迷宮」。もうこの頃のタイトルは何でもかんでもカタカナ英語にしてますが何で素直にこういう邦題にしないかなあ、「ブラックブック」とかも。

舞台は第二次世界大戦末期のスペイン。スペインは第二次世界大戦では中立国ですが、国内ではナチス・ドイツの援助を受けているフランコ軍事独裁政権とソ連の支援を受けている人民戦線がまだドンパチしている最中。中国のチャン・イーモウ監督の作品でやはり第二次世界大戦の中国を舞台にした「紅いコーリャン」みたいな印象をちょっと受けました。共通点は牧歌的でのどかな風景に対比される支配者の残虐さ。

あらすじ

第二次世界大戦末期のスペイン、物語の絵本ばかり読んでいて夢見がちな少女オフェリア(イバナ・バケロ)は妊娠中の母カルメンアリアドナ・ヒル)と山岳地方のフランコ軍の駐屯地に向かっていた。母は再婚相手で駐屯地の指揮官であるビダル大尉(セルジ・ロペス)から駐屯地で彼の子供を出産するために呼ばれたのだ。母は大尉を愛していたが、オフェリアは現実主義者で冷酷非情な大尉になじめずにいた。
フランコ独裁政権に抵抗する人民戦線は駐屯地近くの山にこもってゲリラ戦を展開しており、大尉は躍起になってゲリラ狩りを行っていたが、無関係の農民が犠牲になるばかりだった。母は長旅の疲れで体調を崩し、オフェリアとメイドのメルセデスマリベル・ベルドゥ)が彼女の世話をすることになる。
駐屯地の近くには古代の迷宮の遺跡があり、ある夜、オフェリアはカマキリが変身した妖精に導かれて迷宮に入った。迷宮の中央には太古からパン(=牧神)によって守られている地下に続く階段があり、パンによるとオフェリアはかつて地下の王国から地上に逃げ出した王女の生まれ変わりで、再び王女として地下の王国に戻るには3つの試練をクリアしなければならないという。試練を果たすことを誓ったオフィリアだが、現実の世界ではゲリラとの戦闘が激しくなっていくのだった...。

大尉は普段は冷徹な指揮官ですが、時折見せる残忍さは常軌を逸しており、それはとてもオフェリアのような少女が許容できるものではありません。もちろんそうした残虐な行為がオフェリアの眼前で行われることはないのですが、少女の鋭い感覚は大尉の隠された残虐性を敏感に嗅ぎ取って恐れています。一方の大尉の方も連日の戦闘によって研ぎ澄まされた神経で、オフェリアが自分に敵意と恐怖を抱いていることを察しており、妻に対してはことさらに優しく振る舞いながらオフェリアには冷淡で、二人が会話を交わすことはほとんどありません。しかしどんなに嫌でもオフェリアには母親のいる駐屯地で大尉と暮らすという選択肢しかなく、その鬱屈した感情が3つの試練をクリアして地下王国に帰還するという夢想につながっていきます。そして、最初の試練(未見の方のために内容は伏せます)の結果、大尉が主催する晩餐会のために母親が用意してくれたドレスをドロドロに汚してしまうという結果になり、続く第2の試練の結果でも彼女は現実世界で窮地に陥っていくのです。また、母親の出産という女性であるが故の苦しみもまだ少女であるオフェリアには理解不能で厭わしいものでしかありません。そうした彼女の状況を理解してくれるただ一人の存在がメイドのメルセデスなのですが、実は彼女も大尉にある秘密を持っていて、それをオフェリアが知ってしまったことから二人はある種共犯者のような関係になっていきます。
巨大な迷路が出てくるのもそうですが、凶暴性を隠し持った父親と夫に従うしかない母親とセンシティブな子供という関係は「シャイニング」のジャック・バランス一家に似ているように思います。「シャイニング」では母親のウェンディーと息子のダニーが共犯関係を持っていますが、「パンズ・ラビリンス」では実際の母親のカルメンではなく、メルセデスがオフィリアの保護者として共犯関係を持っています。またラストに至る迷宮のシーンが「シャイニング」っぽいのはたぶん確信犯でしょう。他にもパンの存在はオフェリア以外には見えないというところは「シャイニング」のバーテンっぽいですし、第二の試練の怪物は開かずの237号室の幽霊のようにも思えます。

このラストのオチ(?)をハッピーエンドと見るかどうかは評価が分かれるところだと思いますが、大抵のファンタジーが残酷な現実の上に成り立っている、あるいは、とても許容できないほどの悲惨さがファンタジーを生み出す原動力になっているというのがこの映画のテーマだとすれば、このラストこそがこの映画にはふさわしいいのかもしれません。一番最後に再生を象徴するシーンがあって陰惨なまま終わらないところがスペイン映画らしい感じがしました。途中の残虐なシーンは結構キツイのでカップルで観るのはおすすめしません(ホラー映画好きなら許容できるレベルです)が、また、CGの細かい作り込みは一見の価値ありです。口をナイフで裂かれた大尉が自分で鏡を見ながら針と糸で器用に縫うシーンはいったいどうやって合成したのかすごく謎です(鏡を見ながら自分で傷を縫合するとはブラックジャックもビックリという感じでした)。

『アコークロー』 

2007年 日本 監督:岸本司

ようやく梅雨も明けて暑さも本格的になってきたので怪談話でも。南国の楽園というだけではない日常と非日常が交錯するようなディープな沖縄の地域性を取り入れたオキナワンホラーの傑作。タイトルは沖縄方言(ウチナーグチ)で「明るく暗い」、光と闇の狭間の誰彼(たそがれ)時という意味。

あらすじ

美咲(田丸麻紀)は沖縄に移住した恋人の浩市(忍成修吾)と一緒に住むことを決め、沖縄にやってきた。浩市の友人で漁師の渡嘉敷仁成(尚玄)と小学生の息子の仁太、仁成の漁師仲間・喜屋武秀人(結城貴史)とオバア=おばあさん(吉田妙子)に歓迎された夜、美咲はオバアから沖縄各地に伝わるのキジムナーの伝説を聞かされる。なぜかキジムナーに興味を引かれる美咲は、仁成から紹介された小説家でユタ(霊媒師のような巫女)もしているという比屋定影美/ひやじょうかげみ(エリカ)という女性を浩市とたずねた。キジムナーは伝説では赤い髪をした子供のような姿とされているが、亡霊とも妖怪とも妖精とも新種の生物とも言われ、その正体はわからないと影美はいう。
ある日、浩市と美咲の家の前を髪を真っ赤に染めた女性が通る。浩市はその女性は仁成と離婚した元妻の早苗(菜葉菜)だと言う。彼女は二度目の子供を不注意で死なせてしまってから情緒不安定になり異常な行動を起こすようになってしまったのだと言う。彼女は仁成の留守中に勝手に息子の仁太に会いに来ていた。それを知った仁成は激昂し、早苗をひどく殴りつけ今度来たら殺すとまで言い放つ。いつもとは人が変わったような仁成の態度に浩市は、きちんと早苗と話し合うべきだと説得した。次の休日、美咲、浩市、仁成、秀人が集まり、浩市と仁成が早苗の家に行こうとしていたところへ、なぜか早苗が現れるのだが...。

これは岸田監督の劇場初監督作品ということで、これ以前には沖縄のテレビで『オキナワの怖い話』というシリーズを監督していたそうです(未見)。ホラーと怪談の中間といった印象を受けるのはキジムナーの伝承をはじめ、沖縄的な要素をいろいろ盛り込んでいるせいもあるでしょう。
映画の冒頭に本筋とは直接関係なく、影美がユタとしてお祓いをするシーンがあり(彼女のプロフィールはまだそこでは明かされません)、そこで彼女は亡霊に取り憑かれたと訴える巨乳のおねーちゃんに亡霊はあなたが頭の中で作り出した幻影だと説明します。このシーンだけ見ると彼女は亡霊の存在を信じない単なる合理主義者のように見えるのですが、実際はそうでないことが映画の終盤に浩市と美咲の依頼を受けてお祓いをするシーンで明らかになり、冒頭のシーンはそのための伏線だったことがわかります。
影美のユタとしての活動はエクソシスト(悪魔祓い)のように見えますが(平凡な日常生活の中に少しずつ怪異が侵犯していく映画全体に漂う雰囲気にも映画『エクソシスト』に近いものが感じられました)、単純な神(=善)と悪霊(=悪)の対立で悪霊を祓うのではなく、亡霊や超自然な何かに対しても敬意を払い悲劇の原因を解き明かそうとする姿勢はカウンセラーやヒーラーのようなスタンスです。彼女のユタとしての行動原理は普通の人々には感知できない事象を読み解いて魂を救済するという点で、今年公開された『蟲師』の主人公ギンコに近いようにも思えます。
ホラー的な残酷描写という点ではこの作品はわりと控えめなのですが、仁成がハブに噛まれた仁太を車に乗せて病院に向かう途中で車が衝突してクラッシュするシーン(仁成役の尚玄さんがスタントなしCGなしでやってます)や、後半に美咲が外出中に浩市がうたた寝すると亡霊が出現してうなされていて、美咲が浩市を起こすとまた亡霊が出現して夢に戻るというループにハマるシーンなどは斬新で監督のセンスの非凡さを感じさせます。特に車のクラッシュシーンでは合流地点でサイドから車が突っ込んでくるのと、俳優さんが前しか見てない状態とが同時にカメラに写ってるので、一度でも車で事故ったかヒヤリとした経験がある人は凄く怖いはずです(経験者)。
後半に出現する亡霊と冒頭のお祓いのシーンの亡霊とが異なるのは、冒頭では亡霊がただ見えているだけなのに対して、後半の仁成や秀人や浩市が取り憑かれた(と彼らが思っている)亡霊は積極的に相手に干渉してくる(古い言い方だと「祟る」)という点です。このことは亡霊が現実世界に痕跡を残していくという手法で表現されていて、幻影なのかそうでないのかが次第に曖昧になっていくそういう「アコークロー」というタイトルが示すどっちつかずの境界的な恐怖感がこの映画のテーマかと思います。
登場人物たちのほとんどは酷い目に遭うのですが、その中で一人ヒロインの美咲だけが終始前向きで毅然としているのが印象的です。また比屋定影美は出番は少ないものの、ミステリアスな感じとちょっと投げやりな口調とかヘビースモーカーという設定とかのアンニュイな感じ(桃井かおり風?)が混然としたキャラで登場人物の中でも特に異彩を放っています。後半から終盤はほとんどこの二人の女性(亡霊も入れると三人)がメインにストーリーが進みます。沖縄の女性は強いということなのでそういう展開なのか、私も含め本土の人間は少し違和感を感じるかも知れません。ここで描かれるのは一般的なホラー映画に見られる「対決」ではなく、コミュニケーションによる対話と癒しです。影美が亡霊と対峙するシーンと、美咲と仁太に会いに行くシーンは心に染みるシーンでした。最近は全然救いのない残酷描写だけがウリみたいなホラーが多い中で、ちゃんと怖くて感動できる良質な作品ですので是非多くの人に観て欲しいと思います。余談ですが、三線(さんしん=沖縄の三味線)ファンとしては、劇中で照喜名朝一さんの三線演奏が聴けたのもポイント高かったです。